ブレダ(Breda)[歴史散策]オランダ王家ゆかりの地

こんにちは。なかしま です。

先日、オランダ南部・北ブラバント州の町ブレダへ行ってきました。

ブレダはオランダ王家ゆかりの地…とは聞いていたけどどんな由縁があるのか、八十年戦争では2度に渡ってスペインに占領され、近代においてはドイツ占領下にあったところをポーランド兵によって解放されるという過去があったことも、今回の旅を機に知りました。

思い出保存と情報共有を兼ねて旅行記を綴ります。

適宜、読み飛ばしてくださいね。

本編…汎用的な情報 | …歴史のこぼれ話 | …個人的な感想文 | …行き方や公式サイトの案内

概要

地図

旅した国と地域

国:オランダ
地方 / 州:リンブルフ州
市町村:ブレダ

ブレダ駅:1855年開業

ブレダ駅の開業は1855年5月1日。ローゼンダール とブレダをつなぐ路線の終点駅。

1863年に旧オランダ国鉄によって線路がブレダからティルブルフ まで延長された。 Breda railway station | Wikipediaによれば、ブレダ駅はこの年までベルギーの会社[Société Anonyme des chemins de fer d’Anvers à Rotterdam]1社によって運営されていたそうです。

駅舎は1975年と2014年に建て直され、現在に至ります。

ナッサウ家のモニュメント[Nassaumonument]

ブレダとオランダ王家のつながりはエンゲルブレヒト1世から

駅を出て南へまっすぐ歩くと、まず目に入るのが筒状の立派なモニュメントです。このモニュメントはブレダナッサウ家の結びつき500年を記念して建てられ、1905年7月3日に時の女王ウィルヘルミナによって除幕されました。

このモニュメントは城の形をしています。トップには「柵の中のライオン」を頂いています。このような柵は[Hollandse tuin]と呼ばれますが、どんな意味があるのかは調べ中です。

歴史:ナッサウ家

ナッサウ家は現在のオランダ王家です。同家はもともとドイツの貴族で、その名はナッサウ城の領主であったことにちなんでいます。

1403年にナッサウ・ディレンブルフ家※1のエンゲルブレヒト1世が、ブレダを相続した貴族の女性ヨハンナ・ファン・ポラネンと結婚して、ブレダの領主に叙されたことが、ブレダとナッサウ家のつながりの始まりとのことです。

エンゲルブレヒト1世と妻ヨハンナの名前および紋章に加えて、同家がブレダ周辺に有した所領の紋章も掲げられています。

※ナッサウ家は13世紀にウォルラムスとオトンセの2つの筋に分割され、後者がさらに14世紀初頭に3つに領土分割され、そのなかのナッサウ・ディレンブルフの家系が15世紀にブレダと縁をもつ。

※(補足) オランダ祖国の父として知られるオエンイェ・ナッサウ家のウィレム1世(1533 – 1584)も、ナッサウ・ディレンブルフ家の長男(ディレンブルフ城にて誕生)。彼は従兄からフランスの公国オランジュ[オランイェ]を相続し、ディレンブルフは弟のヤンに相続。

ナッサウモニュメント
Nassaumonument

https://goo.gl/map...ie9s9EnM96
公式ウェブサイトhttps://bredanassa...umonument/   

ブレダ公園[Park Breda]

かつてのブレダ城の庭が、いまは市民の憩いの場

ナッサウ家のモニュメントはブレダ公園の入り口にあります。このまま公園の散策を兼ねて南へ進みたかったのですが、今日はイベントの準備があるようで柵と幕で覆われていました。写真はWikipediaから拝借しました。

このため中の様子を見ることはできませんでしたが、観光案内所のウェブサイトによれば、噴水とベンチと芝生があり、休憩、日光浴、フットボール、ピクニックを楽しむために人々が訪れるそうです。 ニワトリ(⁉)とガチョウもいるそうです。

今では市民の憩いの場ですが、かつてはブレダ城の庭であり、城のゲストが鷹狩りを行っていたそうです。

フェーマルクト通り[Veemarketstraat]

ブレダ公園に入れなかったので迂回してジョーンFケネディラーンなる通りを道なりに進んで四つ角にでました。ここを西へ曲がって少し行くと、小綺麗で落ち着いた佇まいの通りが見えます。

ここを通ってフローテマルクトそしてブレダ聖母教会へ行きたいと思います。

フローテマルクト[Grote Markt]

午後からにぎわう日曜日

旧市街の中心でもあるフローテマルクトを、午前と午後に通りました。道幅の広い石畳の通りです。

日曜だからか朝は静かで、午後から人通りが増えてカフェも賑わっていました。

タウンホール[Stadhuis Breda]

ナチスからの解放75周年、ポーランド兵の活躍!

フローテマルクトにあるタウンホール[市庁舎]です。 私たちが訪れた日曜日は[Open Monumentendag]という特別な日だったので、市庁舎の中に入ることができました。

入ってすぐの部屋には、ナチスからの解放75周年に関する資料の展示、廊下の壁には歴代オランイェ公や著名人の肖像画が掛けられていました。シャンデリアが映える少し華やかな一室には、鏡を挟んで両端にウィレム3世とメアリ王女の肖像画がありました。

日記: ポーランドとオランダの民謡ダンスショー

今日はこのタウンホールで「ポーランドとオランダの民謡(?)ダンスショー」があるというので鑑賞させていただきました。私は演劇やミュージカルやバレエなどの舞台鑑賞が好きなので、主にそういった側面からこのショーを楽しみましたが、ところで、なぜ「ポーランド」なのか。

これについては、頂いたリーフレットにオランダ語で説明があったのですが、翻訳機の力を借りても知識不足で理解できず…。 帰宅してから調べたところでは、第二次大戦中にドイツ占領下にあったオランダにおいて、ブレダを解放してくれたのがポーランド人部隊だったようです(!)

歴史: ブレダを解放してくれたのがポーランド人部隊

第二次大戦中、ポーランドもドイツに占領されており、ポーランド兵(陸軍・空軍)はまずフランスへ逃れました。やがてフランスもドイツに占領され、彼らはスペインからジブラルタルを渡ってイギリスに達し、ここでスタニスロー・マクゼク少将の下で軍を編成します。

1944年のノルマンディ上陸※13後、このポーランド兵は西ヨーロッパの解放のために戦いました。1940年5月のロッテルダム空襲を経てドイツに占領されていたオランダは、ポーランド第一装甲部隊によって、1944年10月29日にブレダが解放され、11月9日にムールデイクが解放されたのです。

ブレダ市は毎年、ポーランド兵士のための祝祭を行っており、解放記念の催し期間中にポーランドから大規模な派遣団が訪れるのだそうです。ブレダには163人のポーランド人兵士が眠る墓地があります。

なお、生き残った兵士の多くは戦後、共産国となったポーランドへ戻らなかったそうです。スタニスロー・マクゼク元少将(1892-1994)はスコットランドのパブで給仕として働きました。102歳(!)で亡くなると、本人の希望によってブレダの墓地に埋葬されたとのことです。

※13 1944年6月6日に連合軍によって行われたドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦。

Youtube
ブレダで行われる解放記念の式典の様子

ブレダ聖母教会[Grote Kerk Breda – Onze Lieve Vrouwe Kerk Breda]

1269年からここにあった石造りの教会に、上述のエンゲルブレヒト1世が建て直しを命じて建造したと考えられている教会です。1410年にいったん完成し、塔が1509年に、内部2つのチャペルは1526年に完成しました。

教会内部の見どころは、約3800本のパイプをもつ大オルガンナッサウ家の墓[Prince’s Chapel]、かつてカラフルに彩色されていた壁の塗料のなごり1410年の再建以前から遺る壁やモニュメントの一部、1403年以降のオランイェ・ナッサウ家の略史展(英語併記)そして、塔に登るツアーに参加することかと思います。

オランイェ・ナッサウ家の歴史はブレダから始まりました。ブレダ教会には初代オランイェ・ナッサウ家のルネ・ヴァン・シャロン(1519-1544)※2とその祖先が眠っています。

※2 ナッサウ・ディレンブルフ家に生まれたヘンドリック3世(1483-1538)がフランスのオランジュ女公クラウディアと結婚し、産まれた息子ルネがオランイェ・ナッサウ家の初代。

※2 (補足)ヘンドリック3世の弟ウィレム(1487-1559)は、ディンブルフ伯領を継いでおり、ここに産まれたのが後に祖国の父として知られるウィレム[寡黙公](1544-1584)。ルネが子供のないまま戦死し、その遺言によってウィレム[寡黙公]にオランイェ・ナッサウ家の称号と所領が相続された。

(補足) ルネ・ヴァン・シャロンの跡を継いだウィレム1世の遺体はデルフトの新教会に眠る。

鐘楼のなかを見学できる塔ツアー!

塔に登ると、 ナッサウクロックと呼ばれる鳴らす様子を見学できます。さらに登って市街を一望することもできます。ガイド付きのツアーとなっていて、所要約1時間。内部の広さや安全上の理由から1回あたりの人数制限(25人)が設けられているので、少し早めに行って込み具合をチェックするのが良いかもしれません。

De noodklok van Breda

日記:Open Monumentendag

教会の入場は無料ですが、塔に登るのは通常ひとり5ユーロで、開催は14時と15時の1日2回だけです。ですが、この日は[Open Monumentendag]という特別な日のため無料で、ツアーも4回行われていました。

そうとは知らずに出かけた私たちは幸いにも11時開催のチケットを頂くことができ、ツアーを楽しませてもらいました。オランダ語がメインですが、希望者があれば英語でも説明してくれます。

ブレダ聖母教会
Grote Kerk Breda

Kerkplein 2, 4811 XT Bredahttps://goo.gl/map...2eUn9szmo7
公式ウェブサイトhttps://grotekerkbreda.nl/  

スペイン門[Het Spanjaardsgat]

教会を出て北西へ向かうと[Vismarkt]から2つの塔に挟まれた水門が見えます。これらは城の要塞の一部で、水門は[Spanjaardsgat]と呼ばれています。

歴史:スペイン人の門

1610年に現在の位置に水門を設けたのはオランイェ公フィリップ・ウィレムです。上述の総督マウリッツの兄です。彼は、父ウィレム1世がスペイン国王に反乱を起こした1568年に、人質としてスペインに誘拐され、そのままスペインで27年に渡る軟禁生活を強いられました。

オランダに帰還した彼は「ザ・スペイン人」とか「ザ・スパニッシュ・プリンス」などと呼ばれたそうです。したがって彼が設けた水門が「スペイン人の門」と呼ばれるようになったというものです。

オランダ版『トロイの木馬』作戦!

日記: 伝承の門…ではなかった

オランダは16世紀初頭からスペイン王国の一部となっていました。しかしスペイン国王フェリペ2世の乱暴な支配に対してオランダの貴族や市民が業を煮やし、16世紀後半に反乱を起こします。これが結果的に独立につながる戦争に発展します[80年戦争※3]。

この戦争の最中にブレダは陥落してスペインに占領(1581)されてしまいました。これをオランダが奪還するエピソード(1590)に、とある「水門」が登場します。

時の総督マウリッツ※4の指示を受けた兵士が、泥炭※5を運搬する船の船底に潜んでブレダ城に入城するという「16世紀版トロイの木馬」作戦を遂行しました。そして、みごとブレダの奪還に成功したのです。

そういうわけで、これがその水門ですね!…と思いきや、現在見られる水門は1610年に拡張されたもので、泥炭運搬船の作戦が遂行された1590年には存在していなかったというのです。古い図面や絵から、当時の水門は北側に設けられていたことがわかるそうです。

ちょっと残念😗

音楽フェスティバル
DE ALLERLEUKSTE CONCERTEN

Valkenberg, 4811 VC Bredahttps://goo.gl/map...iMiQiCZQq9
公式ウェブサイト水門の前で行われる音楽フェスティバルhttps://hetspanjaardsgat.nl/   

ブレダ城[Kasteel Van Breda]

水門が見える場所から東へ進むとカステール広場[Kasteelplein]に出ます。ブレダ城の正門前です。

現役の王立陸軍士官学校

城内は博物館になっているものと思い込んでいましたが、実際は現役の「王立陸軍士官学校」として活用されていました。このため自由見学はできませんが、ツーリストオフィス[観光案内所 / vvv]主催のツアーに参加すれば城内を見学することができます。

そうとわかれば早速ツーリストオフィスへ!…行きたかったのですが、この日は日曜日。[Open Monumentendag]という特別な日でしたが、それでもツーリストオフィスは閉まっていました。

公式サイトの該当ページも何やら不具合があって表示されず…🙁 見学には事前予約が必要かもしれません。

歴史:ブレダ城の歴史

ブレダ城の基礎となる要塞は1198年にはすでに存在していたようです。近くには町の基礎もできました。以下、Wikipedia(en)を参考に、ブレダ城にまつわる出来事を時系列で記載しておきます。

1353年:ブラバント侯爵が男爵領ブレダをポラネン家※6のヤン2世に譲渡(有償)。ヤン2世は4つの塔を建て水路を引いて城を強化。

※6 ポラネン家は、現代まで続くオランダ貴族ヴァン・ワッセナー(伯爵位&男爵位)の分家だそう[side branch]Wikipedia

1403年:ヤン2世の娘ヨハンナが、ドイツ貴族ナッサウ家のエンゲルブレヒト1世と結婚。ここに始まるナッサウ家とブレダの縁を記念して500年後に建てられたモニュメントが上述のナッサウモニュメント。彼らの息子のヤンは、城をさらに拡張

1536年:ヘンドリック3世は城を要塞から宮殿へと建て替えを始めるが2年後に没し、息子のルネが引き継いで完成させる。

1544年:ルネは子供のないまま戦傷がもとで死亡したため、ブレダを含む彼の領土と爵位は従弟ウィレムに相続された。このウィレムが、祖国の父として知られるオランイェ公※7ウィレム1世(1533-1584)。フェリペ2世が君臨するスペイン王国との戦いにおいて、ブレダ城は再び要塞として機能した。

※7 ヘンドリック3世がオランイェ公女と結婚し、息子ルネが継いだオランイェ公爵位もウィレムに相続された。ドイツ生まれのウィレムはオランダのために戦い1584年に暗殺される。

1667年:第二次英蘭戦争※8を終結する和約がブレダで調印される[ブレダの和約]。

※8 北米のオランダ植民地ニュー・アムステルダムをイギリス軍が占領してニュー・ヨークと改名。これに対してオランダが宣戦布告、劣勢のち優勢になったところへ新たにフランスの脅威を感じ講和を急いだ。

1686年-1695年:オランイェ公ウィレム3世※9が城を建て増し。しかし彼自身がこの城に長く滞在することはなかった。

※9 オランイェ公ウィレム1世の曾孫にあたる。

1746年-1748年:オーストリア継承戦争※10に係るイギリスとフランスの和平協議が、ここブレダ城で行われた。

※10 1740~1748年、ハプスブルク家の跡目争いが欧州を二分する戦争に発展。オーストリア=イギリスとプロイセン=フランス・スペインなどが対立。欧州の領土をめぐる戦争に並行してイギリスVSフランスの植民地戦争も起こる。

1826年:オランダ国王ウィレム1世がブレダ城に「王立陸軍士官学校」を設置。

ブレダ城
Kasteel Van Breda

Kasteelplein 10, 4811 XC Bredahttps://goo.gl/map...wzhuofJ4Y7
公式ウェブサイトhttps://www.welkom...-van-breda   

ウィレム3世像[Monument Stadhouder-konig willem III]

ブレダ城の正門を眺め終えて広場を南へ歩くと、四角柱があります。見上げると頂上にオランイェ公ウィレム3世(1650-1702)の像が建っていました。彼の没後200年にあたる1902年に建てられたそうです。

ウィレム3世はオランイェ公ウィレム1世の曾孫にあたります。80年戦争が終わり、オランダが独立(1648)した後に生まれています。彼はフランス(ルイ14世)の侵略からオランダを守った総督として、またイングランド王&スコットランド王に即位したことで知られています。

歴史:イングランド国王になったオランダ人

80年戦争が終結してウィレム2世が没したのを機にオランダは、総督職[Stadhouder]※11を設けない方針を採ったため※12、ウィレム3世は当初は総督ではありませんでした。

しかしオランダは、イギリスに海から、フランスに陸から攻められて大パニックに陥る時期を経験します。ウィレム3世は市民に求められて総督職に就き、フランス軍の侵入を食い止めました。

一方で「総督職を設けないこと」に固執してしまった首相[大法官 / Raadpensionaris]のほうは、暴徒と化した市民にハーグで虐殺されるという悲劇も生じています(対英戦では功績を残しているにも関わらず…)。

ウィレム3世はその後、イギリスの王女メアリと結婚し「イギリス名誉革命※16」で担ぎ出されてイングランド王(兼スコットランド王)に即位しています(!)

しかし子供はなく、ウィレム1世の直系としてもここで途絶えることになりました。オランイェ公爵位はウィレム1世の弟ヤンを祖先とするヨーハン・ウィレム・フリゾーに渡り、現在の王家まで続いています。

イングランド(およびスコットランド)では、亡き王妃メアリーの姉妹であるアンが女王になりました。

※11 本来は国王に代わって地域を監督する「国王代理」職のひとつ。ただし80年戦争初期に国王廃位を宣言して以降は、オランダのリーダーシップ的な役割および求心力として首相[大法官 / Raadpensionaris]と対を成すような位置づけとなる。複数の州の総督職をオランイェ公が兼務し代々引き継いだ。

※12 第一次無総督期

※16 イングランドで議会が国王ジェームス2世(カトリック)を追放し、娘のメアリ王女とその夫ウィレム3世(プロテスタント)を招聘したクーデター。

ベギン会修道院[Breda’s Begijnhof Museum]

最後にベギン会修道院を見学して帰途につきます。

カステール広場の南から[Catharinastraat]を東に行くとベギン会修道院[Breda’s Begijnhof Museum]があります。ベギナージュとも呼ばれるこの施設には独身の女性(処女また寡婦)が暮らしていました。

修道院とは少し違う、中世に起源をもつベギナージュ

[ベギン会]とは中世に起源をもつ、半聖半俗・半修道会的な女性の共同体です。修道女とは違って入会誓約は課されず、自ら収入を得て生活することを許されていました。主な仕事は教育機関の維持管理、病人の看護、肉体労働や、生存者への祈りなどでした。

かつてヨーロッパには1000近いベギン会修道院が存在したそうですが、建物こそ遺っていても、その制度や伝統が現在まで残っているところは僅かとのことです。

このベギン会修道院の最後のシスターは1990年に亡くなりました。しかし今日でも、この敷地には独身女性が暮らしていて、多くの伝統と習慣が維持されているそうです。

設立は1267年、当初はブレダ城の傍に位置していました。16世紀にヘンドリック3世(1483-1538)が行った城の庭の拡張に伴って、現在の場所に移されました。

ベギン会はカトリックの会です。現在ベギン会修道院の入口の隣にある教会は、もとはベギン会の礼拝堂※14として使われていましたが、1590年※15にプロテスタント(カルヴァン派)のワロン教会[Waalse kerk]となりました。

プロテスタント優勢のオランダにおいて、ベギン会は幸いにもオランイェ公の保護を受けて存続することができました。

集合住宅の一部が博物館として公開されています。

中庭にはハーブが植えられており、静かで落ち着いた雰囲気です。庭の奥に礼拝堂があり入ることもできますが、こちらは「観光用ではなく現役の礼拝堂です」…と張り紙がありました。

※ 14 聖ウェンデリン[Saint Wendelin of Trier]を祭った礼拝堂。(この聖人崇拝はドイツでポピュラーなことからナッサウ家によって持ち込まれたと推測されている。)

※ 15 泥炭運搬船[16世紀版トロイの木馬]作戦で、ブレダがカトリックのスペインからプロテスタント優勢のオランダに渡った年。

本日の行程

2019年9月日曜日 天気☀

時刻内容
09:08 - 10:15アムステルダム中央駅(Amsterdam Centraal)
[鉄道]NS Intercity direct
ブレダ駅(Breda)
10:15 - 12:30[散策]
ナッサウ家のモニュメント
ブレダ公園
フェーマルクト通り
フローテマルクト
タウンホール
ブレダ聖母教会
12:30 - 13:00[昼食]運河沿いのベンチでお弁当
13:00 - 16:00[散策]
スペイン門
ブレダ城
ウィレム3世像
ベギン会修道院
16:15 - 17:22ブレダ駅(Breda)
[鉄道]NS Intercity direct
アムステルダム中央駅(Amsterdam Centraal)

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