デルフト日帰り観光:オランダ誕生17世紀の面影
こんにちは。トオ子 です。
デルフトは小さくて、歴史があって、きれいな町です。駅から徒歩で散策できます。
新教会にはオランダの英雄『祖国の父』が眠っています。教会の塔に登ることができ、地上85メートルからの眺望を楽しめます(日曜休館)。
新教会と向かいあって建つのは17世紀ルネサンス様式の市庁舎。鐘楼はかつての牢獄で、拷問が行われたこともあります。
少し歩くと旧教会があり、14世紀に建てられたオランダ版『ピサの斜塔』が見れます。なぜ、そしていつから傾いているか…気になったので調べました
これまでに訪れたのは3回。5月と6月と10月でした。寒かったのでホットチョコレートであたたまりました☆
思い出保存と情報共有を兼ねて旅行記を綴ります。
本編…汎用的な情報 | …歴史のこぼれ話 | …個人的な感想文 | …行き方や公式サイトの案内
CONTENTS
新教会[Nieuwe Kerk]
駅を出て北に歩くと右手(東)に見えるのが、オランダで2番目に高いデルフト新教会の塔です。新教会にはオランダの歴史の重要人物、祖国の父とよばれる英雄が眠っています。
暗殺された『オランダ祖国の父』が眠る
デルフト新教会の中へには、オランダの英雄「オランイェ・ナッサウ家のウィレム寡黙公」が眠っています。スペインの支配下*11で圧政に苦しむ貴族や民衆を率いて反乱を指揮した人物です。
*11 スペインの支配下…オランダ共和国が誕生する直前、一帯はハプスブルク朝スペインの支配域に含まれていた。
この反乱は80年におよぶ戦争に発展し、政治・宗教など紆余曲折を経て、結果的にオランダ共和国の誕生(独立)にいたりました。このため『祖国の父』とよばれます。また、現在のオランダ王家の祖先にあたります。
大掛かりな催しがないときは、一般客向けにオランダと王家の歴史を紹介するパネルや映像が霊廟を囲うように並んでいて、英語も併記されています。
歴史:ウィレム寡黙公の暗殺と、オランダ共和国の誕生のいきさつ
16世紀。オランダという国が誕生するまえのこと。当時、いまのオランダやベルギーやルクセンブルクに相当する地域は、ネーデルラント(低地地方)と呼ばれており、ハプスブルク=スペインの支配下にありました。
ちょうど宗教改革*12の運動がネーデルラントにも及んだころです。支配域をカトリックで統一しておきたいスペイン国王にとって、増えはじめるプロテスタントは許しがたい存在でした。
*12 宗教改革…カトリック教会の信仰の在り方(免罪符ビジネスとか)を知識人が不信に思い抗議したことにはじまる。広くヨーロッパに波及し、プロテスタント(抗議者)がカトリック教会から分離する。
スペイン国王フェリペ2世は『プロテスタントの弾圧(処刑)』や『都市特権*13を無視した圧政』を行い、これを見かねたウィレム寡黙公がネーデルラントの貴族や民衆を率いて、スペインに対して反乱を起こしました(1568)。
*13 都市特権…領主から、他の地域にはない一定の自治権をあたえられた町(=都市)が有する諸権利。フェリペ2世は、都市が得ていた特権に反して中央集権化を図った。
ウィレム寡黙公は欠席裁判で国家反逆罪となり、財産は没収、長男はスペインに人質にとられました。同志の貴族が処刑され、難を逃れたウィレムには懸賞金が懸けられました。
ホラント州とゼーラント州は、オランイェ公を総督として反乱側に加勢する姿勢を示しました。反乱は戦争に発展しました。
しかし1584年、ウィレム寡黙公はデルフトで暗殺されてしまいます。51歳、最初の反乱から16年後のことでした。暗殺の現場はいまの『プリンセンホフ博物館』です。壁には、なんと、そのときの銃の痕がのこっています。
歴史:八十年戦争を経てオランダ共和国が誕生
ウィレム寡黙公が率いた反乱は戦争に発展しており、彼が亡くなった後もつづけられ、休戦をはさんで80年にもおよびました(1568-1648)。
味方の都市がスペイン軍に包囲されて陥落することもあれば、逆にスペイン側についていた都市を反乱軍が占領することもありました。
長引く戦争は少しずつ動機や性格を変え、反乱軍 VS スペインの政治的な戦いであると同時に、カトリック VS プロテスタントの宗教争いともなりました。
1648年に戦争が終結し、そのときに反乱軍が押さえていた地域が『オランダ共和国』として独立することが認められました。このときオランダはすでにめざましい経済発展を見せており、『黄金時代』といわれる17世紀を迎えていました。
歴史:若き日の肖像画がイケメン!ドイツ生まれのウィレム寡黙公のおいたち
『オランダの祖国の父』とよばれるウィレム寡黙公は、1533年に、ナッサウ・ディレンブルフ家の長男として生まれました。出生地は現ドイツ西部のディレンブルフです。このときはまだ、オランダ(当時ネーデルラント)とは縁がありませんでした。
転機がおとずれたのは1544年です。オランダ南部のブレダ出身の従兄(ルネ・ド・シャロン)が、子供のないまま戦死しました。彼の遺言によって、その称号と領土が、当時11歳のウィレムに相続されることになったのです。
従兄の領土は、ネーデルラントの広域に加えて、現在のフランス東部にあたるオランイェ公国も含んでいました。称号はざっくり言うと『オランイェ公爵 + ナッサウ(ブレダ)伯』です。オランイェ・ナッサウ家ですね。
ただし相続には条件がありました。
カトリックに改宗しネーデルラントで成人
ウィレムはルター派(プロテスタント)に親しんで育っていましたが、相続にあたってカトリックに改宗することが求められました。11歳のウィレムに代わって父がこれを黙認しました。ウィレムはまずはブレダで、のちにブリュッセルで、ローマ・カトリック教会の教育を受けて成長することになります。
ウィレムの後見人(摂政)となったのはハプスブルク朝スペイン*14の国王カルロス1世(=神聖ローマ皇帝カール5世)でした。ウィレムとカルロス1世の関係は良好でした。折り合いが悪くなったのは、次代の国王フェリペ2世からです。
22歳のウィレムの肖像画が、たいへんな美男子です。描かれたのは1555年、ちょうどスペイン国王カルロス1世が引退し、王位が息子のフェリペ2世へ継承される頃です。
フェリペ2世への抗議と反乱
フェリペ2世は、プロテスタントの取りしまり強化のために司教区を再編して、スペインに有利な人材を重役に据えるなどしたため、地元の中小貴族の権益をうばい反抗をまねきました。さらに異端審問所や特別法廷を設けてきびしいプロテスタント弾圧を行いました。貴族から市民まで、身分を問わず多くの人が処刑されました。
この頃ウィレム自身はまだカトリック教徒でしたが、寛容の精神を説いており宗教弾圧には反対でした。またフェリペ2世(に信任されたアルバ侯)が都市の『権利』を無視して圧政を敷いたため、見かねたウィレム寡黙公は、ついにスペインに反旗をひるがえすのです。1568年のことでした。
*14 ハプスブルク朝スペイン…ネーデルラント広域の領主となっていたハプスブルク家の男子が、スペイン王女との結婚を通じて国王になったことにはじまる。その息子(カルロス1世)が王国と領土を継いだので、ネーデルラントの税金がスペインのために使われるなどした。
歴史:新教会の霊廟(れいびょう)に眠る子孫、現在のオランダ王家
ナッサウ家の墓は、オランダ南部のブレダにありました。しかしウィレム寡黙公が暗殺されたとき、ブレダはスペインの手に落ちていたため、ここデルフトの新教会に埋葬されたのです。
以降、現在に至るまでデルフトの新教会の地下にはオランイェ・ナッサウ家の人々が埋葬されています。同家は現在、オランダ王国*15(1815~)の王家です。オランダ共和国*16(1648~1798)時代には総督職をほぼ世襲した家系です。
ウィレム寡黙公の直系男子は18世紀に途絶えてしまったため、ウィレム寡黙公の弟の直系男子が家名を継いで現在に至りますが、女系(アルベルティーナ・アフネス)を通じて血筋も継がれています。
遺体安置所は地下にあり非公開ですが、教会内部で模型を見ることができます。また2004年の葬儀の様子がモニターに映しだされています。17世紀の有名な建築家が手がけた立派な墓碑も見応えがあります。
*15 オランダ王国…1815年に成立。オランダは、直前までフランスに組み込まれ消滅していた。かつての共和国が王国として復活。
*16 オランダ共和国…スペイン支配からの独立で1648年に誕生した国。現在のオランダの原形。州連邦の国で、州ごとに「総督(リーダー職のひとつ)」を任命していたが、オランイェ家が複数の州の総督を兼任することがほとんどだった。
新教会の塔に登る
オランダで2番目に高いという『デルフト新教会の塔』に、一般客も登ることが出来ます。尖塔まで含めた全長は108.75 メートル。
376段の螺旋階段をのぼって85メートルの高さまで行けます。リフトはありません。バルコニーは2か所あり、特に上層はとても狭いのでスリルがあります。眺めも素晴らしいです。澄んでいればハーグまで見えるそうです。(わたしがのぼった時は見えませんでしたが ^^;)
この塔は長い歴史の中で火災と落雷に見舞われて、最後に建て直されたのは19世紀です。現在見られる上層部の黒ずみは、焦げではなく酸性雨の影響です。クリーニングしても無駄だから…ということで、このままだそうです。
わたしは高いところが苦手なのに各地の塔に登りたがります。リタイアを前提に最高潮のスリルを味わう主義です!(各1回限定)。
怖くてバルコニーには踏み出せませんでしたが出入口から眺望を楽しむことができました!以下の写真は友だちが撮影したものです☆
歴史:あえなく焼失…永遠を象徴するおおきなリンゴ
新教会の建設は14世紀のおわり頃(1381)から始まりました。完成したのは15世紀の末です(1496)。尖塔のてっぺんには『永遠を象徴するおおきなリンゴ』が設置されました。
ところが、50年とたたないうちに塔は焼け落ちてしまいます。1536年におこったデルフトの大火事です。
尖塔は建て替えられましたが『おおきなリンゴ』はもう添えられませんでした。どんなリンゴだったのか気になるので絵など遺されていないかと資料をあさりましたが、まだ見つけられていません。
塔は19世紀に落雷にも見舞われます。建て直しを請け負ったのはPierre Cuypers(1872)。マーストリヒトのふたつのバジリカの修復も担当した著名な建築士です。
旅行インフォメーション
料金には、新旧教会のわりと詳しいガイドリーフレットも含まれています(蘭語 / 英語)。入場料には3つのオプションがあります。
- 新教会と旧教会に各1回入れる共通チケット
- (新教会の)塔だけのチケット
- 新教会&旧教会 + 新教会の塔のコンビチケット
Nieuwe Kerk
デルフト新教会
最寄り駅https://goo.gl/map...mCKeMbVqX9
ツーリストインフォ教会に向かって左の路地にデルフトのツーリストインフォがあるhttps://www.delft....-vvv-delft
Markt 80, 2611 GW Delfthttps://goo.gl/map...xu3HGghtZ7
公式ウェブサイト旧教会および新教会の共通公式サイトhttps://oudeennieu...kdelft.nl/
デルフト市庁舎[Stadhuis Delft]
マルクト広場に新教会と向かい合って建っているのは、オランダ・ルネサンス様式の市庁舎です。市民のウェディングを目にすることがあるかもしれません。現役の市庁舎ですが、主な機関は現在デルフトの駅ビルの中にあります。
1620年築、オランダ黄金時代の歴史遺産
市庁舎は1200年頃からここに建っていましたが、1618年の火災で燃えてしまいました。無事だったのは鐘楼(1300±年築)だけ。これを囲うように建てられたコの字型の市庁舎が、今日まで受け継がれています(1620年築)。
この市庁舎はベルギーのワローナ産の石灰石をつかったルネサンス様式の建物。デザインしたのは当時の有名な建築家ヘンドリック・デ・ケイゼル(1565-1621)です。新教会にあるウィレム寡黙公の霊廟も彼の手になるものです。
市庁舎の外観は数世紀のあいだにおおきく変わりましたが、20世紀の修復のときに、黄金時代の姿が復元されたそうです。赤い窓扉が印象的です。
市庁舎のファサード(正面)に『正義の女神』像があります。司法・裁判の公正さをあらわすシンボルで、オランダの市庁舎によく見られます。
火災に耐え14世紀からのこる鐘楼は、かつて牢獄としても使われました。投獄されたもっとも有名な人物は、バルタザール・ジェラール(1557-1584)です。プリンセンホフにて、ウィレム寡黙公を銃で暗殺した犯人です。
歴史:バルタザール・ジェラールの拷問の内容(閲覧注意)
ウィレム暗殺後に逃走をこころみたバルタザール・ジェラールでしたが、市壁をよじのぼっているところを取り押さえられました。
投獄され、取り調べをうけます。当時の取り調べというのは「拷問」です。ウィキペディアに載っていた内容を挙げると以下のような感じです。
- 棒または鞭でたたかれ外傷を負わされる
- 傷口にハチミツが塗られ、ヤギが連れてこられる…ヤギの舌はヤスリのようにザラザラしています。この舌で塩やハチミツを延々と舐めつづけるため、これは古くからある拷問の手段でした。ところが、どうしたわけか、この時はヤギが乗り気じゃなかったようです。
- 両手と両足を合わせて縛られ、足の親指にそれぞれ136キログラムの重しがつながれた状態で1時間半、吊るされる
- 犬のなめし皮でつくられた小さい靴(たっぷりのオイルを含んで湿っている)を履かされ、その足が火のすぐそばに置かれると、皮が縮んで足が圧迫され、熱されたオイルが皮膚を焼く
- 脇に焼き印を押される
- アルコールに浸されたシーツを着せられ、焼けたベーコンの油が注がれる
- 尖ったクギが爪と皮膚のあいだに刺しこまれる
さらに処刑の方法は、当時にしてもかなり残忍だったとか…。ここに詳しくは書きますまい…。
執行日は1584年7月14日でした。
旅行インフォメーション
デルフト旧市庁舎
Stadhuis Delft
Markt 87, 2611 GS Delfthttps://goo.gl/map...mCBbV7USz5
観光局公式ウェブサイトhttps://www.delft....l/stadhuis
旧教会[Oude Kerk]
市庁舎の裏の通り(Hippolytusbuurt)を北上すると、左(西)に見えてくるのがデルフトの旧教会です。かつてのデルフトの中心地に位置しています。
現在見られる旧教会は、ゴシック様式のプロテスタント教会堂です。高さ75メートルの塔が傾いています。
築670年!オランダ版『ピサの斜塔』地盤ゆるく2メートルの傾き
少し遠くから眺めてみたいのが、旧教会の塔です。高さ75mの塔が、西に2m傾いています。さらに塔の角にある四つの尖塔をよく見ると…ん?この部分だけが垂直です!塔は傾いているだけでなく曲がっているのです。
運河と運河に挟まれた教会には塔を建てるための十分な土地がなかったので、1本の運河を少し迂回させ、埋め立てた土地に塔が建てられました。
塔の建築がおこなわれたのは14世紀(1325-50)。埋め立てた土地は地盤がゆるくて、塔は建築中からはやくも傾き始めていました。建築にあたった人々はレンガを積むごとに傾きを補正しながら仕事をつづけ完成させたといいます。
四つの尖塔は、教会のリーフレットによれば1900年に建て替えられたものだそうです。傾いた塔の上に、しかし地面に対して垂直になるよう建てられ、不思議な建造物になりました。
いつ倒壊するかもしれないこの塔は19世紀に取り壊しが検討されていましたが、強く反対する声があり、遺されたそうです。現在は十分な安全性が確保されているとのことです。
塔の近くでわずかに迂回している運河の線を、現在の地図でも確認できます。
右非対称のままおよそ500年
この場所には11世紀(1050±)から小さな教会が建っていました。それなのに建築年が13世紀(1246)とされているのは、この旧教会が本格的に改築・拡張されたのが1240年頃だからです。
15世紀に新教会が建ちはじめると旧教会も競うように拡張され、16世紀には天然石をつかった大規模な増改築が計画されました。しかしこの壮大な計画は、工事の途中で中止されます。なぜなら…
- デルフトの大火事(1536)
- 宗教改革(1540~)
- 聖画像破壊運動(1566, 1572)
などが立て続けに起こったためです。教会の増改築は中止され、左右非対称な状態で今日までのこることになりました。改築が完了していたのは、北の翼廊と東のマリア祭壇です。ぜひ他の部分との違いを観察してみてください。
旧教会の中には模型が展示されています。旧教会がどんなふうに拡張されてきたか、そして、どんなデザインになる予定だったか…を時系列で見ることができます。
ところで旧教会には3つのオルガンがあります。いちばん大きくて目立っているオルガンは1857年製。2832本のパイプが並んでいるそうです。見えているパイプはほんの一部です。
歴史:パイプ1本につき1つの音!オルガンはどんなしくみ?
パイプオルガンは、空気圧で音をだします。鍵盤(けんばん)を押すと、バルブがひらいてパイプに空気がおくり込まれて音がでるしくみです。昔はふいごを使って人力で空気をおくり込んでいました。
パイプは1本につき1つの音しか出せません。世界のオルガンはよくパイプの数とともに紹介されますが、これは、パイプの数が多いほどたくさんの音色を奏でられるということです。
すると2832本のパイプをもつこのオルガンには、2832個の鍵盤があるのかというと、そうではありません。もしそうなら演奏するのが不可能です(たぶん)。
パイプはトランペット風、フルート風、バイオリン風…ほか多数のいろいろな楽器に似た音が出るように作られています。ひとつの鍵盤を押すことで複数のパイプに空気をおくり、楽器のハーモニーを奏でることができるのです。
どんな楽器の組み合わせにするかは ” 設定 “ できるようになっています。楽器のグループごとに『ストップ』とよばれるレバーを操作してオンとオフを切り替えます。
デルフト旧教会のオルガンを弾いている様子がYouTubeで公開されていました。2013年の映像です。ストップを操作する人もついています。学生さんかな?教会が一般に公開されている時間帯の演習だったそうです。運が良ければ、訪問時に聴けるかも知れないですね!
歴史:ご近所の食器がカタカタ…傾いた塔におさまる9トンの鐘の音
傾いた塔に、約9トンの大きなベルがおさめられています。1570年に鋳造された、直径2.34メートルのベルです。打ち鳴らすととても大きな音が響き、ご近所の家のティーカップがカタカタ鳴るのだとか…。
この振動は傾いた塔にも少なからずダメージを与えるはず…ということで、特別な日にしか鳴らされません。たとえば災害の緊急事態や、ロイヤルファミリーの葬儀のときなどです。
とはいえ、教会のウェブサイトを読むと ” 優しいチャイムの音は同じベルから1時間ごとに奏でられる “ のだそう…?どういうことだろう。次回訪れるときには、気にしながら歩いてみようと思います。
ちなみに、旧教会にはもうひとつのベル『the Laudate』があるそうです。
第二次大戦中の1943年、このベルは新教会にあったベルとともに、ドイツ軍に押さえられました。熔かして武器の資源にされる予定だったのです。
幸い実行されることはなく、1946年に『the Laudate』は旧教会に戻されました。このベルは現在も30分毎に音を響かせているそうで、これも次回訪れた時に耳をすませてみたいと思います。
外部リンク 教えてルーシー! パイプオルガンのひみつ その1/4 PIPE ORGAN
横浜みなとみらいホールのパイプオルガンをつかって、しくみを説明してくれている動画です。
外部リンク パイプオルガンの成り立ち パイプオルガン誕生ストーリー | 楽器解体全書 | YAMAHA
パイプオルガンの成り立ちがわかります。図を添えて丁寧に解説されています。
旅行インフォメーション
旧教会
Oude Kerk
Markt 80, 2611 GW Delfthttps://goo.gl/map...xu3HGghtZ7
公式ウェブサイトhttp://oudeennieuw...lft.nl/en/
チョコカフェ[Quetzal de Chocoladebar Delft]
新教会で入場チケットを購入すると、市内のカフェの『コーヒー無料券』がついてきました(2019年6月および10月の時点)。コーヒー以外の飲み物が欲しい場合は、コーヒー1杯との差額を支払えばOK。無料券に載っている店のなかから、旧教会ちかくの Quetzal Delft へ行きました。
本物のホットチョコレート
教会でもらったコーヒーチケットを使ってQuetzal de Chocoladebar Delftで差額2ユーロのホットチョコレートを注文しました。カカオとミルクの比率まで選べる本格ホットチョコレートは、超濃厚でとても甘く、ホイップクリームまでのっています。
多くのカフェのメニューに「ホットチョコレート」がありますが、本格派はぜひ、どこでもいいのでチョコレート専門のカフェで注文してください。ふつうのカフェとは少し、場合によってはものすごく、クオリティが違います☆
日記:ホットチョコレート
6月に訪れた時は、新教会に近いチョコレート店 Chocolate Company Café Delft でホットチョコレートを飲みました。こちらも素晴らしかったです。3人で訪れたのでディスカウント券は3枚渡したのだけど、二人分しかディスカウントされていないことに、あとで気づきました。わたし、暗算が苦手だから、その場で気づくことができないんですよね…(/ω\)
寒い日、冷えたからだに暖かいチョコレートが染みわたると、とても特別。わたしのようなスイーツだいすき人間は、全身がしあわせ気分で満たされることまちがいなしです!(断言)
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旅行インフォメーション
タイトルにほんご
タイトル現地語
Voorstraat 4, 2611 JP Delfthttps://g.page/Que...elft?share
公式ウェブサイトhttps://quetzal.nl...ion/delft/
宿の詳細
概要
本日の行程
2019年10月 月曜日 天気くもり 気温:寒い(ダウンジャケット必須)
時刻 | 内容 |
9:35 - 10:35 | [鉄道 IC]アムステルダム中央駅 ⇒ デルフト駅 |
デルフト散策:新教会、旧市庁舎、旧教会、ランチ、カフェ | |
15:54 - 16:55 | [鉄道 IC]デルフト駅 ⇒ アムステルダム中央駅 |